チュベローズで待ってる【AGE22・AGE32】

あなたと私の、「私」の話  綴

 

 

 この物語は、「私」の物語だ。いくつもの「私」がぶつかり合い、互いに主張している。様々な場面でそれを意識させられる。
 たとえば、「私」の目にうつる世界は、あなたの目にうつる世界とは違うということ。そんな簡単なことを、時々忘れそうになる。私には私の見ている世界しか見えないから、それがすべてだと錯覚してしまいそうになる。『チュベローズで待ってる』を読んでいると、そういう錯覚を随所に感じる。
 物語は主人公である光太の視点で語られているので、上巻を読んだ時点で彼が美津子をどう思っていたかがわかるが、チュベローズに通う彼女が幸せを感じていたなんて思っていなかったように読み取れる。美津子が光太との時間に幸せを見出すようになり、それが死ぬ理由となったなんて思わなかっただろう。美津子のことが少しもわからなくて、それでもわかりたかったから、追いかけるように仕事をしたし彼女の死んだ部屋に住み続けた。
 また、光太が自分を思うようにコントロールできなくなる様子も「私」の揺らぎを感じる。暴力的な自分に戸惑いを感じるのは、光太の「私」が揺らいでいるからだ。本来の自分はそうではなかったはずという揺らぎ。そういった事象は、自覚している本来の「私」というものがあるから生じる。揺らぐべき「私」がなければ起こるはずはない。決して明るくはない彼がホストとして上手くやれるようになったのは、これは「私」の揺らぎではなく変容、あるいは拡張だと言えよう。
 もしあのまま美津子が生きていたら、光太はあんなに強くなれなかっただろうし、美津子も弱くなってしまっていただろう。生きることは、いろんなものを鈍らせる。その一方で、死とは完成のひとつの形態である。もうそれ以上先がない。これ以上幸せになりようがないと思っていた美津子が、光太に出会って幸せを見つけてしまった。その幸せに縋りつくことだってできたはずなのに、彼女はその幸せを永遠のものにすることを選んだ。死ぬことで、光太を愛していたということを証明したのだ。他でもない、自分自身に。これもまた「私」というものがそこに強くあるということを感じさせる場面のひとつだ。
 もし美津子が光太以外の誰かを駒に選んでも、きっと死を選んだのだろう。でも、それでは意味が違う。復讐の過程で必要な手順であったり、世界に絶望したという理由ではなく、彼女は愛の証明のために死んだのだ。他の誰も意味を見出さなくても、美津子には意味があった。彼女自身が「わがまま」と自覚しているように、とても自分勝手で、それゆえに心惹かれてしまう。
 自分勝手なのは美津子だけではない。光太もそうだ。美津子を振り回した八千草兄弟もそうだし、自分の事情で光太をホストの世界に引きずり込んだ雫もそうだし、水谷も亜夢もそうだ。他人の家族の話に自分の意見を割り込ませる恵もだし、誰も彼もがそう。美津子を振り回していると思っていた光太も。自分の見ている世界を、それが「世界」そのものだと思い込み、時折それが事実でないことを思い出しながら、生きている。世の中というのは、そんな人間たちの「わがまま」のぶつかり合いだ。人間と人間の。私と、また別の「私」の。
 みんな、自分のために生きている。よりよくあるために。よりよく生き、よりよく死ぬために。でもそれは、自分を大切にしている証拠でもある。自分のことが大切じゃない人は、自分のためには生きられないし自分のためにも死ねないはずだから。この物語に出てくる人たちは、みんな自分が大切なのだろう。それは人として正しいと思う。自分勝手ということは、すなわち悪いこととは言えない。悪い面は確かにあるとしても。
 「無私」という言葉があったとして、誰かのためになんてことは、本当はないと私は思う。誰かのためにと思う自分のためだ。そこにはどうしたって「私」がつきまとう。私の目にうつる世界が私にしか見えないのも、「私」に囚われているからだ。しかし、「私」という檻から逃れて生きる術はない。
 我々は「私」からは逃れられない。美津子が、八千草兄弟が、雫が、水谷が、亜夢が、そして光太がそうであるように。
 あなたも私も、自分が一番かわいい。それでいいじゃない、と思う。それを肯定してくれるのが、この『チュベローズで待ってる』だ。それでいいじゃない。だって私の人生だもの。

 

 

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